【徹底解説】細田守とジブリの関係は?『ハウル降板』の真相まとめ

2025年11月21日公開『果てしなきスカーレット』の監督を務める細田守さん。

細田さんはこれまで『時をかける少女』『サマーウォーズ』など数々の名作を世に送り出してきました。

そんな細田さんですが、スタジオジブリなのか、それとも別会社で同じアニメ制作をスタジオジブリと関係は同業他社ということで敵対関係なのか、どういう関係なのかが気になったので調べてまとめました!

目次

細田守とジブリの関係とは?

細田守さんはスタジオジブリではありません。一度、出向したことがあります。

細田守さんはスタジオジブリではありません。しかし、いくつかの接点がありました。

細田守さんはアニメに関心を持ったきっかけの作品の1つに宮崎駿が監督を務めた『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年公開)でした。

細田守さん

ジブリに入りたい!

1991年、細田守さんはジブリの採用試験を受けます。

細田守 ジブリを不合格になる

細田守さんは採用試験で「絵を2枚以上書いて提出」。そんな一次試験で細田さんは、「150枚以上」も提出したと言います。

しかし、細田守さんは、最終選考でまさかの不合格。

ところがその不合格通知のなかに宮崎駿さんの直筆の手紙が同封されていました。

「君のような人間をジブリに入れるとかえって君の才能を削ぐと考えて、入れるのをやめた」

宮崎駿さんからの手紙にはそんなことが書かれていました。

それでも、あきらめがつかなかった細田さんは、「雑用係でもいいから入れてください!」と懇願しました。

しかし、ジブリ側からの返答は、

「今回、宮崎さんが手紙を書いたのは全受験者中、二人だけです。これは光栄なことですから、おとなしくあきらめて下さい」

こうして細田守さんは、1991年に東映動画(現・東映アニメーション)に就職することになります。

細田さんは当時は悔しさが先に立ったとしつつ、のちに“歯車”ではなく作家として進む覚悟を固める契機になったと語っています。

2000年3月、細田守さんは『劇場版デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』を公開。

この作品が話題となり、細田さんの評価が世に知られる作品となりました。

細田守 『ハウルの動く城』降板までの流れ

細田守の『ハウルの動く城』

するとかのジブリから『ハウルの動く城』を作りませんか、とオファーが来ました。

当時ジブリでは、若手に監督と任せよう、という方針をとっていました。

また、このころのジブリでは2001年公開の『千と千尋の神隠し』の制作で、大変忙しい時期でもありました。

細田さんは、やっと自分の力を発揮できる機会が来たと、オファーを快諾しました!

東映動画(現・東映アニメーション)からジブリに出向しました!

しかし、細田さんの『ハウルの動く城』は制作半ばでとん挫してしまいます。

のちに細田さん自身が以下のように振り返っています。

『僕がジブリに行って『ハウル』を作ってる時に、その当時ジブリは『千と千尋(の神隠し)』で大変だったわけですよ。

だから、『ハウル』の準備のためにジブリが割けるスタッフがいなかったの。いなかったんで、自分で集めなきゃいけなかった。

作画にしろ、美術にしろね。
自分が監督として、スタッフを集めていかざるをえなかったわけ。

「お願いします」と言って、やってもらってたんです。

僕はプロデューサーではないから、「気持ち」だけでお願いしてるわけですよね。
「あなたが必要なんです」と言ってお願いしているんです。
「『ハウル』は総力戦だ!」と思ってるわけだからさ、
「この人がいなきゃダメだ!」と思うような人に、1人1人、お願いしてきてもらっていたんです。

ところが諸事情で、プロジェクト自体がドカーンとなったわけじゃない。

監督って、プロジェクトが崩壊した時に、スタッフに何かを保証できる立場にないんですよね。

それが崩壊した時に、その人達に対して申し訳ないというかさ。
「絶対にいいものを作ります!」と言ってたのに、公約を果たせなかった。

ある意味、嘘をついちゃったわけです。
裏切ったわけです。

もう、誰も自分を信用してくれないだろう。

映画って1人じゃ作れないからさ、
本当に「もう俺は終わりだ!」と思ったんだよ(笑)。これはマジな話ね。

これからは大きな事を言わずに、業界の隅っこで細々とビジネスライクにやっていこうと思ったわけですよ(苦笑)。』

細田守さん

「もう俺は終わりだ!」と思いました。

なぜ制作が頓挫してしまったのか、「諸事情」の詳しい内容は分かりませんが、いろいろなことが重なってダメになってしまったことが想像できます。

細田さんは『ハウルの動く城』を失敗することで、もう映画作りは無理だ、自分はもう終わりだ。とジブリに関して2度目の挫折となります。

その後、『ハウルの動く城』は宮崎駿が監督と務め、ゼロから作り直し公開。これがまた大ヒットしました。

『ハウルの動く城』ができるまで

『ハウルの動く城』ができるまでを表にまとめました。

時期出来事主な当事者補足・メモ
2000年細田守がスタジオジブリに出向し、『ハウルの動く城』の監督に起用細田守/スタジオジブリ東映出身の細田が長編監督として参加開始
2001年12月東宝が細田守監督版『ハウル』として公開を正式発表(当初は2003年春予定)東宝/スタジオジブリ
2002年春頃細田守の制作が頓挫し、体制を再編へジブリ制作陣方針・作法の違い、人員再配置などが重なりプロジェクトが停止
2002年10月宮崎駿が監督に就任、実質“ゼロから再始動”宮崎駿/スタジオジブリクレジット変更。美術・設定を含む再構築が本格化
2003年宮崎版の本格制作期宮崎組スタッフ絵コンテ・レイアウト主導で再開発、宣伝計画も再設計
2004年11月宮崎駿監督版『ハウルの動く城』公開宮崎駿/東宝大ヒット。評価・受賞歴が積み上がる

細田とジブリとの関係 まとめ

細田守さんとジブリの関係をまとめると、

・細田守はジブリではない。
・ジブリの採用試験を受けて、落とされた。
・ジブリから『ハウルの動く城』の政策を依頼されて、東映動画(現・東映アニメーション)から出向。
・細田守の『ハウルの動く城』は制作半ばで頓挫。
・頓挫した理由は、諸事情があり、プロジェクトが崩壊した。

細田守さんは素晴らしいアニメ映画をたくさん世に輩出していますが、スタジオジブリではありませんでした。

しかし、彼の作品にはジブリから影響を受けた部分は少なからずあるでしょう。

また道半ばでなくなってしまった細田守が監督を務めていた『ハウルの動く城』はどんな作品の内容だったのか、とても気になるところです。

しかし、『ハウルの動く城』での挫折があったからこそ、今の細田さんの作品があるとも言えます。

細田守監督最新作、2025年11月21日公開の『果てしなきスカーレット』が楽しみですね。

また細田さんに関する情報が入りましたら、随時更新していきます。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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